羽 衣 『空への回帰』  (お侍 拍手お礼の十五・別Ver.)

  

 羽衣だから取り上げたのだと、子供のようなことを言い張る久蔵へ。困ったお人だとの苦笑混じり、返して下さいなと詰め寄れば。

  「空へなら、一緒に還りたいと思ったのではないかの?」
  「…え?」

 唐突な声が立ち、自分のみならず久蔵もまたハッとしたようで。申し合わせたかのように、二人同時にそちらへと視線を向ければ。草いきれの青く垂れ込める空間の奥向き、深海にも似た重なり合う樹らの向こうから、滲み出るかのように姿を現したは。深色の蓬髪を背へと垂らし、壮年の重厚な存在感をその風貌へとたたえた、我らが惣領殿ではないか。
「またもや儂の入れ知恵だと片付けられては困るのでな。」
 いつぞやの悪戯はそうだったが、今回は違うらしく。そんな稚気を深みのあるお声で紡ぎつつ、深い笑みにて綻んで見せると、だが。悪戯っ子の傍らまでを歩み寄り、
「休む時にわざわざ此処へ、森へまで運ぶのは、枝の天蓋で空が見えぬようにではないのか?」
 細い顎を上げて、怪訝そうに見上げてくる赤衣の若侍からの視線を、臆しもしないで真っ向から受け留めて。褪めた白の衣紋の裾、足元へと散らし広げ、彼のすぐ傍らへと屈み込むと、
「時折、いつまでも空ばかり見上げておることがあるからの。」
 そんな、意外な言いようをする。日中のほぼを村人への弓の指導にと充てていて、ただただ監督するだけという単純な仕事であろうに、全く逸れず衰えを知らぬその注意力は生半かなそれではなくて。だというのに、空ばかりを見上げているなどと、一体いつの話だろうかと。七郎次としては、例え御主の言葉だとても、それをこそ怪訝に思ったものの、

  「そんな自分を諦めの悪いことよと思うからこそ、此処へと来るのだろう?」

 くっきりとした声で告げられたその途端に、

  「…っ。」

 赤い瞳が落ち着きなく躍ってから、ふいっとそっぽを向いた彼だったということは。久蔵本人も気づいてはいなかった、知らず知らず取っていた所作・態度だったのかも知れないと、七郎次にもそこは通じて。

  “だから…。”

 空へ還るというフレーズにまつわるものへ、知らず思わず、関心が起きた彼だったということか? 白い手がきゅうと握りしめられ、手へと巻きつけた緋色の布もまた、その手の甲を締めつける。

  「…。」

 この時代にこの若さで、侍としての孤高に身を置いていた凄腕の剣豪。商人の護衛なぞという我を殺す仕事に縛られていつつも。おもねりに染まらず、卑屈な傲岸にも親しまず。冴えたそのまま、凛とした態度を保っていられた彼だったのは。縁
(えにし)や柵(しがらみ)、あるいは欲というものに無縁だったからであり。

  ――― あの大戦が終わっても、
       空はいつだって還りたいとしていた、恋しい処だから。

 だが、もはや戻れはしない。その現実こそが…翼を奪っただけでは飽き足らず、鎖となって枷となってその身を地上へと重く縛りつけてもいて。
「…。」
 今の彼が唯一、焦がれるほど欲していたのは、刀による斬り結びで自分を本気にさせて満たしてくれる存在だけ。そこまでの練達ならば、当時の自分を…全身がぴりぴりと尖っていた、そのまま凶器のようだった自分を覚醒させてくれるだろうから。破滅的ではあるけれど、だがもう、元へは戻れないのだと、それこそ諦めてもいたればこその渇望で。

  ――― 空にまつわるものは、もはや
       疎ましくも憎いものと化していた筈だったのに。

 其処では毎日のように、ただ立っていることさえ難儀な場で、見知らぬ同士での殺戮が繰り広げられていた。あんな日々のほうが異常な状態だったのだということくらい、理屈では判るが。

  ――― 体が、魂が、いつまでもそこへの回帰を望んでやめない。

 能力が全ての“穹”という戦さ場は、一瞬でも気を抜けば命を奪われる、それは危険で残酷で、生か死かしか存在しない、究極の二極化世界だったから。死への恐怖を克服したければ、頭も体も空っぽにして、自身を針のように尖らせて。四方八方、空間の全てを隈無く把握し、何処からだって何処へだって、完全な対応が出来る身であることという、苛酷な集中と反射を求められた。

  ――― 気がつけば…考えることを一切放棄していて、
       自身が刀になる体感のみに価値観を見い出していた。

 肌からも感情からも温もりを奪い去り、それほどの速さで全身を駆け巡り沸いていた、獣みたいな血脈の騒ぎが収まるのに、一体何年かかったのだろうか。いつだって死と隣り合わせという何とも恐ろしい世界ではあったが、それを御せた者へはあんな自由はなかったこと、それだけはどうしても忘れられなくて。魂を穹へ忘れて来たのかと、朋輩からも揶揄されて。

  ――― 自分の心をこうまで掻き乱す空が、恋しくて…憎くて。

 地上にいる時間の方が長くなるにつれ、そんな間に知らずに負うていたものが枷ともなり、体は重うなるばかり。時は流れ、もう還れないのだということへの自覚が強まるにつれ、手の届かぬこの距離が今や恨めしくてならなかった。かつて空にいた証、刀に生きる“侍”も減った。刀をもてあまし、だが捨てられぬまま、未練に押し潰されそうになっている浪人ばかり。そんな中、


  『…お主、侍か?』


 この時代に、いまだ尖ったまんまの、いやさ幽鬼のような存在がいた。罪か業か、暗澹たる何かを背負い、なのに刀を研ぎ続け、それを振るう身もまた研ぎ続けている、そんな男と邂逅出来た。
『事情
(わけ)あって練達の士を求めておる。』
 いまだ侍であり続けること。それへこだわることを捨てていない存在は、彼にとっては鮮烈で、同時に歓喜でもあったろう。そんなことをいまだに突き詰めている時代錯誤な阿呆が自分だけではないのだと。ともすれば同族を見いだしたような気分にもなったろう。なのに、

  ――― そやつは、どうしても斬り合いたいなら仕事を終えるまで待てと言う。

 この自分を練達と認めたそのくせに、灼くような眸で見たくせに。農民からの依頼で野伏せりを斬りに行くのが先だと、どうしても斬り合いたいならその仕事を終えるまで待てと言う。恣意から挑みかかった自分よりもずんと勝手に、こちらの血脈へこうまでの火を点けておいて。なのにそんな我儘を言う勘兵衛を、問答無用で斬れなかった時点で。もはや…彼を惜しいと思う気持ちの方が勝
(まさ)っておったのかも知れぬと、果たして久蔵は気づいていたのだろうか………。





*  *  *


 旅先で ふっと空を仰ぐたび、いつも真っ先に思い出したのは あのお人のことばかりで。何にもない、青いばっかな空とは全くの真逆なお人でしたねぇ。瞳も印象も気概も、物静かなところを裏切って、それはそれは鮮烈な赤いお人でしたのにねぇと。思うと同時に、いつだってひどく胸が痛んだ。

  ――― 村から一番眺めのいいところに、彼は眠っている。

 空へ還るというのは、全身を覚醒させ、大戦当時の最盛期の自分へと戻って、その満足を抱えたままという、最高の幸せに包まれて死にたいということだったのかもしれない。だとすれば、彼なりの大往生を望んでいただけのことで、他の誰とも変わらない、少しも奇矯なんかではない望みだったと言えなくもなくて。だとしたら、その身こそ神無村で眠っていても、その魂は…望んだ通り、空の彼方へと還ったのだろうか。そこから我らをいつもいつも見下ろしてる彼だから、こうして見上げるたびに思い出してしまうのだろうか。


  “………ねえ、久蔵殿。其処は…お空は今、暖かいですか?”







  〜Fine〜

  *最期の言葉は“村で待つ”でしたね。
   その事実を想うだけでも胸が拉
(ひし)がれてしまいますね。
   短いだけに、意味深な一言だなと思います。
   お主は此処から生きて帰れという意味と、
   そんな彼を、自分の魂は神無村で待っているからという意味と。
   それから…まだ何かあったのではなかろうか。
   言葉足らずなところは、最期まで変わらなかったというところでしょうか。

   if設定の『千紫万紅』を書こうと思ったのは、
   この結末がいつまでもいつまでも悲しかったからで、
   だとすれば、体のいい逃避ですよね。
   今回、此処へと立ち戻ったことで、
   まだまだひりひりと胸が痛む自分だということへも気がつきました。
   同じこと、思い出してしまわれた方、ごめんなさいです。


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